天王寺動物園に向かう途中、20代の男性をみかけた。ほそくて、左肩をおとし、右手で左腕をにぎっていた。足取りは不安定で。
具合の悪そうなことは、ひとめでわかった。
通り過ぎるとき、目にしたものは。
定規のめもりのように切り刻まれた左腕と、赤い横線と、縦線だった。
リストカット常習のひとだったのだ。
わたしは、声をかけるのをためらった。そして、とおりすぎた。
いまから病院にいくところかもしれないし。
声をかけて、なにができるというのだろう。まちあわせもあるのに。
むかいから、幼稚園か、小学校低学年の子供たちが遠足で列を成し、とおりすぎていくのがみえる。
かれらも、彼の異常にきづき、心に深くそのすがたを残してしまうだろう。
自分を切り刻むほどに、思いつめることはなんなのだろう。
そして、それを見せびらかすかのように歩く姿は。
声をかけてほしいのか、それとも、その姿を人のこころに焼き付けて自分の存在を残そうとしているのか。
自分に陶酔しているのか。
哀れんでほしいのか。
人を巻き込んで、主役を演じたいのか。
一目見て、死に至る傷ではないことはわかった。
本人だってわかっているのだろう。
わたしは、どうすればよかったのだろう。
そのときにとるべき行動を選択できたと、わかっている。
わかっているけど、やはり、彼の姿は心に焼き付いて。
それが彼の策略だとしても。罠にかかったのをわかったっていても。
思わずにいられないのだ。
自分を切り刻む意味を。
わたしは、人の感情に巻き込まれやすい。
電車や店での人の会話・感情に、勝手に巻き込まれて、ものすごく疲弊するのだ。
わたしと、わたしにつながる人たちが、こころ穏やかであるように。
いつも、そう祈っている。